2009~ブラジル、サンパウロ。毎日、自分探し。

自分が何をして、何を感じて生きてるのかを、客観的に知るために、とりあえず毎日書きたい!

大事にされること、愛されること。

リオデジャネイロで滞在したアパートに到着したときのこと。

 

ベッドの上には、真っ白なタオルとカカオショーのチョコレートが一箱。

バスルームは、いいにおいがしていて、新品のハンドソープが置いてあった。

 

その丁寧なおもてなしに、ハオニが感動していた。

 

その様子をみて、大事にされるってこういうことか、

と思った。

 

 

 

誰かが、自分のために何かをしてくれる・してくれた、ということ。

それが、大事にされるという感覚。

 

反対をいえば、

自分が、誰かのために何かをしてあげる、ということ。

それが、大事にするということ。

 

これは、愛されること・愛することとイコールなのではないかと思う。

 

 

好きなことをしていいよ、

自由に選んでいいよ、というのと、

「大事にされる」というのは、違う。

 

前者は、自分の意志を尊重されること。

後者は、誰かが自発的に自分のために何かをしてくれる・くれた、

という「サプライズ的」なこと。

 

「大事にする・される」=「愛する・される」

 

自由を与えられるだけでは、愛される・愛されているという感覚は得られない。

「自分の欲求・要求が受け入れられた」

=「尊重されている・認められた」「自分はOKである」ということ。

 

=愛されている、ということにはならない。

 

 

「大事にする・される」という、積極的な働きかけは、

「誰かが、その人の意志で、自分のために何かをしてくれた」という、

一方的に受け取るのみの、サプライズ的なこと、

 

それがあってはじめて、

「愛されている」という実感が持てる。

 

 

ハオニの要求が、「大事にされたい・してほしい」ということの表れなんだと思った。

文句・不平不満は、「大事にされていない」という訴えなんだなと思った。

 

そして私の、

新しいものや上等のものを使うのがもったいないという感覚は、

「自分を大事にしていない・できていない」ということの表れなんだと思った。

 

残り物・余計のもの・ついでのものを使うということは、

「その程度の価値だということ」

「大事にされる対象ではない」という思いを表すのだと思った。

 

 

今まで、自分で自分を大事にしてこなかったし、

大事にされることや、誰かを大事にするということも、

感覚として、分かっていなかった。

 

だから、他人に対して、大事にするというのが、

どういうことか分からなかったんだな、と思った。

 

他の人が、自由に自分のやりたいことをやっているのをみると、

「ずるい」と思った。

=「私もそうしたいのに、できない」ということ。

本当は、そうすればいいだけのこと、なのだけど・・・

 

自分で自分を大事にすることへの許可が下ろせないでいるので、「できない」

 

だから、「自分で自分を大事にしている人」「自分の望むことを自由にしている人」

をみると、いいなぁと思っていたんだ。