大事にされること、愛されること。
リオデジャネイロで滞在したアパートに到着したときのこと。
ベッドの上には、真っ白なタオルとカカオショーのチョコレートが一箱。
バスルームは、いいにおいがしていて、新品のハンドソープが置いてあった。
その丁寧なおもてなしに、ハオニが感動していた。
その様子をみて、大事にされるってこういうことか、
と思った。
誰かが、自分のために何かをしてくれる・してくれた、ということ。
それが、大事にされるという感覚。
反対をいえば、
自分が、誰かのために何かをしてあげる、ということ。
それが、大事にするということ。
これは、愛されること・愛することとイコールなのではないかと思う。
好きなことをしていいよ、
自由に選んでいいよ、というのと、
「大事にされる」というのは、違う。
前者は、自分の意志を尊重されること。
後者は、誰かが自発的に自分のために何かをしてくれる・くれた、
という「サプライズ的」なこと。
「大事にする・される」=「愛する・される」
自由を与えられるだけでは、愛される・愛されているという感覚は得られない。
「自分の欲求・要求が受け入れられた」
=「尊重されている・認められた」「自分はOKである」ということ。
=愛されている、ということにはならない。
「大事にする・される」という、積極的な働きかけは、
「誰かが、その人の意志で、自分のために何かをしてくれた」という、
一方的に受け取るのみの、サプライズ的なこと、
それがあってはじめて、
「愛されている」という実感が持てる。
ハオニの要求が、「大事にされたい・してほしい」ということの表れなんだと思った。
文句・不平不満は、「大事にされていない」という訴えなんだなと思った。
そして私の、
新しいものや上等のものを使うのがもったいないという感覚は、
「自分を大事にしていない・できていない」ということの表れなんだと思った。
残り物・余計のもの・ついでのものを使うということは、
「その程度の価値だということ」
「大事にされる対象ではない」という思いを表すのだと思った。
今まで、自分で自分を大事にしてこなかったし、
大事にされることや、誰かを大事にするということも、
感覚として、分かっていなかった。
だから、他人に対して、大事にするというのが、
どういうことか分からなかったんだな、と思った。
他の人が、自由に自分のやりたいことをやっているのをみると、
「ずるい」と思った。
=「私もそうしたいのに、できない」ということ。
本当は、そうすればいいだけのこと、なのだけど・・・
自分で自分を大事にすることへの許可が下ろせないでいるので、「できない」
だから、「自分で自分を大事にしている人」「自分の望むことを自由にしている人」
をみると、いいなぁと思っていたんだ。